《 ありがとう 》



意識がゆっくりと覚醒していく。
そばに人の気配があるような気がする。

「…っ……」

目を開くと、知らない天井が見えた。
自分の部屋じゃない。
それはわかったけれど、どうして自分がこんな場所に居るのか見当がつかない。

「ここは…。」
「目が覚めたのか。」
「っ!」

ぼう、と呟いた言葉に返事が返ってきて、俺は驚いて声の方向を見た。
俺の寝ていたベッドの横で椅子に座っていたのは、意識を失う前に確かに見た、青年の姿だった。

「傷の具合はどうだ?」
「傷…?ぁ痛…ッ!」
「…急に動くからだ。あれだけ深く斬られたんだ、そう簡単には治らない、か…。」

ズキッと痺れるような痛みが走り、顔をしかめると、青年は思案顔で呟いた。

「斬られ………、ッ!」

青年の言葉に疑問の声を上げかけて、意識を失う前の出来事を思い出す。
ハッとしたような俺の表情を見て、青年はこちらに視線を戻した。

「…思い出したか。」
「あれは…夢、じゃ…、」
「夢じゃない。…お前のその足の怪我が、何よりの証拠だろう。」

視線で示されて、俺は自分の足元の方へ視線を向ける。
記憶の中の通り、左足に走る痛み。
動かさなければそれほどではないが、少し動かしただけで結構な激痛が走る。

「聞きたいことはあるだろうが…俺もお前に聞きたいことがある。先に質問してかまわないか?」
「?…どうぞ。」

俺が頷くと、彼はバッグを取り出した。
どこかで見たことがあるような、気がしないでもない。

「悪いが勝手に荷物を改めさせてもらったぞ。ここへ入れるのに身元証明が必要だったんでな。」
「あ、ハイ…。」

そうか、あれは俺の荷物だ。
走って逃げている間、あれを持っていた記憶がある。

。これが、お前の名前で間違いないか?」
「そう…うん、そうです、俺の名前です。」

そうだ。俺はだった。
なんでそんな当たり前のことを忘れていたんだろう?

「生年月日は?」
「えぇと………、」

問われて、頭の中から情報を引き出そうとするけれど、自分の生まれた日がいつだかは思い出せない。
かろうじて、出てきたものはひとつだけだった。

「…年齢は、18歳です、よ。」
「いや、年齢じゃなく…」
「わからないんです。」
「…?どういう意味だ?」

俺の答えに、彼は怪訝そうな眼差しでこちらを見る。

「俺、気付いたら、駅前に居て…あの影みたいなのに追いかけられて逃げてたんですけど、…駅前より前の記憶が、ないんです。」
「…なに?」

彼の声が少し険しくなる。
強くなった視線に耐え切れなくて、さり気なく視線を下へと落とす。

「俺の記憶はあの駅前からしかないんです…ひとに会ったのも、あなただけだし…。」

気まずそうに俯く俺だったが、彼は納得したように「…そうか」と頷いた。

「お前の荷物の中に、学生証が入っていた。」
「学生証…ですか。」
「ああ。…だが…、ここに記されている学校も、お前の住所だと書かれている場所も…存在していないんだ。」
「え…………?」

思わず、俯いていた顔を上げる。
動悸が激しくなる。

「どういう、ことですか…?」
「わからん。だからこそ、起きたお前に話を聞きたかったんだが…記憶喪失、とはな。」
「う、す、すみません…。名前と年くらいしかわからなくて…。」
「別に責めているわけじゃない。アレ…俺達は”シャドウ”と呼んでいるが、シャドウに初めて遭遇した人間の記憶が混乱する事例はあるんだ。…まぁ、お前ほどひどい症状は見たことがないが…。」
「そう、なんですか…。」

コンコン、

「明彦、私だ。入るぞ?」

ノックの後、女性の声がしてドアが開いた。
入ってきたのは、赤い髪が豪奢な印象を与える女性だった。
彼女は彼―――明彦と呼ばれていたところから、彼の名前だろう―――と俺を見て、わずかに驚いた様子を見せた。

「目が覚めたのか…。」
「え、あ、…はい、えっと…なんだか色々すみません…。」
「意識に異常はないみたいなんだが、重度の記憶障害だな。」
「記憶障害?」

明彦さんの言葉に、彼女が訝しげに言葉を反芻する。
それに頷いて、明彦さんは彼女から俺に視線を戻した。

「俺と会う前…駅前に居たらしいんだが、それより前の記憶、全部がプッツリらしい。覚えていたのは名前と年齢…それだけだな。」
「すべての記憶が!?…それは…確かに重度だな…。一時的なものだとは思うが…。」

女性の視線が気まずそうにさまよう。

「えっと、あの、でもっ、名前と年だけでもわかってて、良かったです。名前も覚えていなかったら、自分が誰だかもわからないままだったと思うし…。」

あわててそう言えば、女性と明彦さんは目を見合わせ、噴き出した。

「え…?」
「っくく…いや、すまない。渦中の人物から慰められるとは思っていなかったものだから…。」
「っはは…そうだな、確かに。名前を覚えていたおかげで、俺達はお前のことを名前で呼ぶことが出来る。」
「あっ、そうだ、俺、まだ名前を聞いてなかったです。」
「そうだったな。私は桐条美鶴。そしてこっちが…」
「真田明彦だ。」
「桐条さんと、真田さんですね。」

覚えるように反芻すれば、明彦さんが少し眉をゆがめる。

「年は同じ18歳だ。昨日の夜みたいに、敬語と敬称なしで呼んでもらえるか?」
「もちろん、私のこともな。」
「えっ!?えぇと、じゃあ…桐条に、真田…?」
「苗字呼びも良いが、どうせなら名前で呼んでくれ。」
「う、え、あ、…えっと…美鶴、に、明彦…?」
「ああ。よろしく。」
「身元のことは俺達も考えておくから、今は傷を治すことだけを考えろ。良いな、?」
「わ、わかった。」

こくりと頷けば、二人は満足そうに頷いて部屋から退出しようと歩き出す。

「あ、あのっ!助けてくれたことも、怪我の治療のことも…あと、俺の話、聞いてくれて、ありがとう二人とも!」

言い忘れていたと、慌てて言えば、二人は顔だけこちらに振り返って、微笑んでくれた。
二人が部屋を出て行ったのを見送った後、俺は急に動いた為に痛みが走った左足を中心にベッドへ逆戻りしてしまったけれど。
それでも、二人の優しさに緩む頬を抑えることは出来なかった。










「それで…明彦、どう思う?」
「ふ…お前こそどうなんだ、美鶴?」

明彦の言葉に、美鶴は苦笑を浮かべる。

「シロだな。…それに、あんな信頼しきった目で見つめられてみろ。疑う気も失せる。」
「まったくだ。」
「だが、記憶喪失か…。彼のあの様子では相当なもののようだな。」
「ああ…なんせ、名前と年以外覚えてないんだからな。それに…」
「…?なんだ、まだ何かあるのか?」

怪訝そうに美鶴が問えば、明彦はポケットからあるものを取り出し、美鶴に渡した。

「これは…。」
「不思議だろう?が学生だと言うのは、最初の夜に制服を着ていたからわかる。だが、これが本当ならば…あいつは学生であるはずがないんだ。」
「留年…という様子でもないな。どういうことだ…?まさか、時間跳躍でも?」
「さぁな。だが…あいつが俺達に害のある存在じゃないってことは確かだ。」
「フッ…違いない。」











夢主が若干しょたっぽい扱いになってる気がするのは多分きのせいです。