好きな人なんて必要なかった。
だって、あの人は、殺せと言ったから。
心なんて必要なかった。
人を殺す生体兵器に、どうして心なんか残していたんだと。
感情なんて必要なかった。
どうして必要ないものばかり、俺は持っているんだろう。






Prologue α ―大切なものは喪われた―






(―――これは、何だ?)

どくんどくんと、自分の心臓の音が聞こえる。
呼吸するのも忘れてしまったかのように…ただただ、目の前の赤い光景に立ち尽くす。

「ああ、よくやった。―――お疲れ様、アルファ。」

背後から嫌に落ち着いた男の声がして…緩慢な動作で振り返る。
神経質そうな、ふちのない眼鏡を掛けた20代半ばの男。
色素の薄い、男にしては長めの銀の髪に、緋色の瞳が眼鏡越しにこちらを見て、笑う。
不快だ。
よくは知らない相手なのに、そう思うのは男の言動からだろうか。
まるで精密な機械のような、冷たく硬質な声。
男はこちらを見て、そして彼女を見る。

「後始末は職員の奴らがやる。お前は自分の部屋に戻っておきなさい。」

言うだけ言って、こちらの返事など聞かずに男は踵を返し部屋から出て行った。
男の足音が聞こえなくなってから、彼女に目を落とす。
いや、正確には彼女"だったもの"だ…―――
シン、と静かになった部屋の中には彼女だったものと自分一人だけ。

「アイリス…?」

呼びかけた声は、僅かに歪んで、地に落ちる。
答えはない。
彼女は…―――アイリスは、もう。
話すことなど出来ない。
もう、彼女のあの柔らかな声も、優しい微笑みも、なにも。

壊したのは自分だ。
彼女は優しくて、"兵器"である自分に優しくて。
自分にはないものだと思っていた、暖かいものを、彼女は教えてくれて。
大事で、とても、大切な…好きな人。
でも。

―――殺せ。

どうして。
何故。
思う間もなく、身体が動いた。
知らない声だったはずなのに。
ほんの数分前に、名前を教えられた、それだけの存在だったはずの男の声に。
強制の力で以って、支配された。

一面に散った真っ赤な液体は、まるで彼女の命のごとく色鮮やかで。

彼女の優しい笑顔も、柔らかな声も、その全てを壊したのは…―――殺したのは、自分なのだと。

全ては一瞬で終わり、彼女は失われた。
いつも優しい笑顔を浮かべていた白い面には彼女自身の血が飛び、綺麗な緑色の瞳は閉じられ、二度と開くことはない。
僅かに開いたままの口からはもう、柔らかな声が紡がれることはない。
薄い茶色の、ウェーブがかった綺麗な長い髪の毛にも血が飛び散り、彼女の着ていた白衣は、すでにその白を失い深紅に染まっていた。

好きな人が死んだら泣くものだと、彼女は言っていたのに。

自分は泣くことも出来ずに、ただただ、その場に突っ立って。
彼女を殺したことで、心のほとんどが何処かへいなくなってしまったような、そんな感覚に陥る。
彼女の返り血に濡れた自身の身体に視線を落とす。
彼女の身体を貫いた左手は、着ていた服が本来真っ白だったのがわからなくなるほど、彼女の血に染め抜かれていた。

(…どうして、こんなことに…?)

何故自分はあの男の声に従ったのだ?
判らない。
何故彼女は死んでいる?
自分が殺したからだ。

「アイリス…。」

彼女は、答えない。

「っ…」

どうしようもない、焦燥に駆られる。
どうしてこんな気分になるのか判らない。

今まで人を殺しても、こんな気持ちになったことなんて無かったのに…―――

耐え切れなくなって、部屋を飛び出した。










何故これ程に焦燥を煽られるのか。

その感情の名を、彼はまだ知らなかった。