厚い雲に覆われていた月が、ゆっくりと顔を出す。
彼が振り返る。
闇の中でもわかる、月の光に鮮明になる桃色の短い髪。
相反するような蒼の瞳を悲しげに細めて…―――彼は笑った。






Prologue F - 緩やかに崩れた日常 -






pipipipi…

高い電子音に、意識が覚醒する。
目を開けて、天井に目が行き、此処は自室だと思い至る。

カチッ

未だ鳴り続けていた目覚ましを止めて、はぁ、と息をつく。
夢だった。
けれど、あの光景は確かに昔自分が見たものだ。

「…最近は見なくなってたのにな…。」

自嘲するように呟いて、ベッドから起き上がり仕度を始める。
着ていた服を脱ぎ、ハンガーに掛けておいたシャツに袖を通し、タイ代わりの紐リボンを結ぶ。
下も履き替え、ベストを着た。
洗面所で、伸ばしている銀の髪が目に入り、長くなったな、と思う。
その長い銀の髪を適当にゆるく三つ編みに結んで、水で顔を洗う。
顔を上げると、鏡に映った自分の蒼の瞳がこちらを見ていた。

「…情けない。」

うなだれるその表情があまりに情けなくて、両手で頬をぱん、と叩いて鏡から目を逸らす。
今日は仕事の日なのだ。
遅れるわけにはいかない。

「報酬が高かったから気にしてなかったが…具体的に何の仕事なんだったかな…。」

トーストをかじりながら、先に届いていた書類に軽く目を通す。
古い知人からの依頼だったから、特に気にしていなかったのだが。
一枚目。仕事の場所、時間帯、報酬の記述がされている。
二枚目。仕事の規約について。
三枚目。

「…は?」

思わず目が点になる。
三枚目には、仕事の内容について記述されていた。

―――とある少年の、教育係となって頂きたい。

「きょぉいく係〜〜〜?」

書類は三枚目が最後だ。
そして、その三枚目にはその文章しか書かれていない。
裏を見てみても同じ。

(元軍人の俺に…何教えろって言うんだ…?)

まぁ、この仕事を送ってくれた古い知人は、自分が元軍人だということは知っていたはずなのでおそらくそれ関連の話ではないだろうか、と思うのだが…。
そういえば古い知人は、やや天然の気があったなぁ、とか頭の片隅で思い出す。

「とある少年、ねぇ…。」

ぼやきながら、最後のトーストの欠片を口の中に放り込み、コーヒーを飲む。
カップをテーブルに置き、胸のポケットから煙草を出して、火をつけた。
ふと、思う。

「…禁煙、かな。…禁煙だろうな…。」

紫煙を吐いて、少しだけ残念そうに肩をすくめる。
食事を片付けてから、時計に視線を移す。
約束の時間にはこれから出れば間に合うと見て、書類を内ポケットに突っ込んで部屋を出た。







車を運転しながら、空を見る。
稀に見る晴天の空。
朝から昼になりかけの日差しが、燦々と地上を照らしている。

「さて、面倒なことにならなけりゃ良いけどな…。」

呟いた声は風に飛ばされていった。